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史記、司馬遷とは何なのか
『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。正史の第一に数えられる。二十四史のひとつ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までである。このような記述の仕方は、中国の歴史書、わけても正史記述の雛形となっている。
二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価を得ているものであり、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。
日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。
史記は英雄叙事詩
司馬遷は中国史を代表する歴史書である「史記」の著者であり、紀伝体の創始者。紀伝体というのは簡単にいえばドラゴンクエスト4のオムニバス形式の歴史書のようなもので、各登場人物たちが列伝形式で紹介されている。日本でも人気の三国志も、正史は紀伝体で記されている。それまでの年号と出来事だけが書かれているようなつまらない教科書のような歴史書とは一線を画する。歴史の先頭に立ち、時代を切り開いていった英雄たちの躍動する姿を文字上で3Dを上回る情報量、熱量で描写した。彼がいなければ三国志という物語は誕生しなかっただろう。作家の司馬遼太郎の司馬も司馬遷から引用している。
北方謙三の史記とは
ハードボイルド作家、北方謙三が上記の史記をベースに独自の登場人物や史観を加え、アレンジしたもの。彼は三国志、水滸伝などの大著も独自に構想、再編して執筆している。いずれも名作極まりない。どの作品のいかなる主人公たちであれ、キューバ革命のフィデル・カストロやチェ・ゲバラのようにまっすぐな志をもった男たちだ。身の犠牲をいとわず、全力で戦い、見える血と見えない血を流しながら生きぬいていく。
本の武帝紀という副題は漢の武帝を中心と執筆していることに由来する。
本来史記というものは漢代の歴代皇帝や臣下たちも掲載しているのだが、あえて武帝に標準をしぼったのだろう。
武帝という存在は、日本ではそれほど知名度がないが、そもそも漢代は中国史の一大エポック。漢字や漢民族の由来もそこから来ている。
歴代皇帝の中で武帝の在任期間は最長(在任年数54年)。匈奴という北方の最強騎馬民族を撃破し、漢の最盛期を築いた名皇帝。
それがいかに最盛期を築いていくかという物語。
あらすじ:1巻
匈奴の侵攻に脅かされた前漢の時代。武帝劉徹の寵愛を受ける衛子夫の弟・衛青は、大長公主(先帝の姉)の嫉妬により、屋敷に拉致され、拷問を受けていた。脱出の機会を窺っていた衛青は、仲間の助けを得て、巧みな作戦で八十人の兵をかわし、その場を切り抜けるのだった。後日、屋敷からの脱出を帝に認められた衛青は、軍人として生きる道を与えられる。奴僕として生きてきた男に訪れた千載一遇の機会。匈奴との熾烈な戦いを宿命づけられた男は、時代に新たな風を起こす。北方版『史記』
主な登場人物
武帝・劉徹(りゅうてつ)
漢の第七代皇帝。中央集権化をすすめ、対外的には積極策をとる。
張騫(ちょうけん)
劉徹の命で、使節として西方の大月氏国を目指す。
李広(りこう)
武門の名家出身で、漢代一と称えられる歴戦の将軍。
桑弘羊(そうこうよう)
少年のころより劉徹に仕え、侍中となる。商人の子。
衛青(えいせい)
建章宮の衛士。奴僕同然に育ったが、劉徹に見出される。
霍去病(かくきょへい)
衛青の甥。若くして武の才に秀で、劉徹に寵される。
軍臣(ぐんしん)
北方の遊牧騎馬民族・匈奴の単于(王)。
感想
武帝は治世前半と後半では大きく評価が異なる。
前半期は外戚の圧力を受けつつ、自前の勢力を築き上げていく受難の時期であり、その後は匈奴を打ち倒し、大漠の果てに追いやることで西方との交易路を確立。漢の最盛期をもたらす、ここまでは歴史上まれに見る名君といえる。武帝は明確な国家のビジョンを持ちつつ、優秀な人物を見抜く人物眼と人材抜擢の思い切りの良さを持っていた。
軍事・外交においては漢の最大の敵だった匈奴を撃滅する前提で戦略を構築した。それまでの漢は匈奴へ定期的に膨大な贈答品を贈るなどして機嫌をとることしかできなかった。力の弱い巨人である漢が、マシンガンを持った凶暴な強盗の靴を、保身のためになめるような卑屈な感があった。
その一方で、騎馬民族である匈奴は三国志の呂布の如き軍馬を軸にした最強軍隊を持つ。さらに彼らを討伐するには砂漠を超え、北方へ軍を走らせねばならない。まるで魔窟に住む悪魔のような軍団である。その上ひ弱な漢の大軍では決してかなうような相手ではない。もはや現実の神話のような敵だった。
しかし、武帝は国家を何代と取り巻いてきた暗黒の打ち瘴気を払うため、奴隷出身の衛青、その甥の霍去病を軍の中枢に起用。外交では遥か西方の大宛国と匈奴を挟撃するために張騫を派遣。商工の分野では商人出身の桑弘洋を起用、的確な能力者が武帝の元に集い、歴史は変わり始める。
統治前半、武帝の度量の広さと、人材を見る目は見事だった。武帝は晩年暴君と化すが、それにいたるまで非常に英邁な君主だったといえる。
その流れは三国志の孫権と似ているところが多いと思う。
最大の見せ場は奴隷出身の衛青と軍事的天才の霍去病のコンビネーション。衛青は漢の騎兵隊の創始者であり日本で言う秋山好古のような存在なら、霍去病は源義経のような輝かしい戦場の役者だ。
彼らの働きにより匈奴は大打撃を受け、オルドス砂漠の果てに追いやられる。
天子(皇帝)は悪魔か?
治世後半
治世中期までは匈奴による外圧、外戚からの内圧の対処で慎重に立ち振る舞っていた武帝だが、後期は感情の抑えがきかず暴走が増える。
まず、
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