
概説
お笑い芸人としての活動や映画監督、文筆家としての文化人活動など、各方面でマルチに活躍する北野武が、ゴーストライターなしに書いた小説の処女作。
主人公は30代のインテリアデザイナー。仕事場では上司に自分の手柄をとられ、労働時間など関係なしにめったくそに働く日々であったが、彼には病気の母がおり、ある施設に入居している。2015年のある日、広尾の喫茶店でたまたま出逢った女性と恋に落ちる。2人は互いの連絡先を聞くことなく、毎週木曜日の夕方に同じ店で会えれば交際をつづけようと約束する。何週も逢えなければ、どこか遠い所へいってしまったということにして、互いの気持ちを忘れようとも。彼らは予定が繰り逢う時はその場所へ赴く。
だが、予定や想定というものは時に破られる。仕事や私生活上の問題、心が二の足を踏むときもある。約束ははたされず、待ち合わせの場所へ行くことができない時もある。お互いが現代社会でたやすく連絡が取れないもどかしさ、伝えたくても伝えられないことによる胸の焦燥感。この関係は終わってしまうのではないだろうかという不安。会える日と会えない日が二人の距離を遠ざけているようで近づけていった。
なんにせよ、彼が仕事で何週も彼女と会えない日も、幼いころから身を犠牲にし、己を育ててくれた最愛の母が死去した際、失意の底でうずくまっているときも彼女と、結局は一緒にいることにはなるのだが。
ある日プロポーズを決意した彼は、彼女との待ち合わせ場所へ赴く。だが1年経っても彼女が現れることはなかった。
1年後、偶然にも彼女の人生に関連した情報を手に入れた彼は、事実に愕然とする。1年前なぜ彼女が約束の場所にあらわれなかったのか。それは彼がプロポーズをしようとした日に彼女が事故にあったということにあった。主人公は彼女がいる施設をつきとめ、知人づてで再会する。
事故の影響で脳と身体に障害を負った彼女がそこにいた。麻痺が残る体ではあったが、お互いが流す滂沱の涙で通じ合うものがあった。彼は彼女を一生愛することを誓い、二人の生活が始まっていく。
自己犠牲
「人生で一度だけ、こんな恋がしたいと思った。」これがキャッチコピーだった。であるとすればビートたけしの理想像を描いた恋愛小説と言っていいだろう。作品の長さは170Pほどで、文字も大きいため中編小説に分類される。文体は簡易。読了時間も短い。
単純にいえば彼が考える純愛小説であり、その根本にあるのは無償の愛ということだ。重病で施設に入り、寝たきりになった母。彼女との交際を知らせた際も、邪魔になりたくないと手術を受けることを拒否し、弱って死んでいった母。デート場所で主人公に急用があり、何度すっぽかした時もいつもいてくれた彼女、最愛の母が死に、ボロボロになった時も側にいて抱いて励ましてくれた女(この作品を通し、終始セックスはない)。皆犠牲を伴うことを知りながら身を挺していく。そして最後は事故で体にダメージを負った彼女を、支えていく主人公もまた同様である。
特徴
彼の作品の最大の特徴は登場人ぶつたちの会話のかけあいの面白さだろう。主人公たちを取り囲む友人たちが、終始冗談を言って、深刻な状況を笑いに変えてくれる。人間らしい男の友情というものがよく表現されていた。これは普通の小説家にはかけない。漫才の帝王だからできる芸だと思った。逆にいえば登場人物たちの会話の中に、不自然なほどプロらしい漫談が登場しているともいえる。
不自然といえば主人公の携帯の着信音が三波春夫の東京オリンピック音頭であったり、取引先が主人公の宿泊先にいきなりソープを呼ぶだの、現代にはない昭和の悪乗りてきなものも見られた。現代小説というより昭和が融合した亜空間で展開された何かと思えばいいのかもしれない。
終わりと始まりに
近づけば離れ、離れれば近づく、容易に手に入るものは安く、手に入らないものに価値が生まれる。ギャップは埋まりそうで埋まらず、埋まらないことでより遠く、ほしいものに見える。二人の想いは想定外の着地点で結実し、大円団。悲劇の中に喜劇があり、喜劇の中に悲劇のある、情深い小説だ。
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